津軽三味線に宇宙観を観る
先日、母と共に地元出身で先天性全盲であって津軽三味線名手の踊正太郎さんの講演会と三味線演奏を聴いた。
塙保己一賞奨励賞の受賞おめでとうございます。
点字読み原稿のうえでの講演でしたが、まったく普通であり、健常者の講演者よりもお上手だったのでないかなぁ。
公演後、踊さんと少し語らう時間も頂き、ありがとうございました。
難聴な僕にも三味線の高音域がとても気持ち良かったです。
人の感覚は視覚からが70%以上と言われるが、踊さんのような先天性全盲の方が津軽の寒い雪景色をどのようにイメージ化されているのか講演後に市長のいるオーディエンス前で質問しようと思っていたのですが、質問コーナーがなかったのが残念でした。
演奏を聴きながら、少なくとも僕は豪雪で吹雪く寒い津軽情景をどのようにイメージできるのか、先天性全盲の踊さんがどのように感じているのか教えて頂きかった。
健常者とか障害者とかの価値観、言葉の定義は健常者側が作ったものであり、ご本人は健常者社会のなかで自分を視覚障害という観念を相対的に気づき、人として大きく成長され、現在の地位へ大成されたのだと思います。
もちろん、ご本人のご苦労など1%も僕には理解できないと思います。
ただ、こんな僕でも気づけることがあります。些細なことです。
踊さんは、鉄道を利用されるようですがプラットホームから落ちて怪我したエピソードを語られました。
踊さんは彼の表現として「欄干のない橋を渡る」という講演タイトルをつけられて話されました。
プラットホームから落ちて硬い地面とレールに叩きつけられて痛かったという表現を使われました。
彼はプラットホームから落ちる前の恐怖感までは語られなかった。
先天性全盲の方の世界観、宇宙観とは普通に目でみえる観念界とは異なるのだろうなと感じたわけです。
例えば、トランプが主張する「メキシコの壁」の壁という観念ですが、生活圏のあやゆる仕切りであるわけです。
踊さんには壁という観念は必要ではないなとね。
踊さんには壁は動くための障害物でしかないような。
壁という観念、こちら側とあちら側という新たな観念をつくります。
壁を観念として意識したときに壁の向こう側という新たな世界がつくられます。
だから、子供心に宇宙の果てを想像するときにその反対側に存在する新たな世界の存在を思い、結果として止念となり更なる思考は停止して、無意識と意識外に葬られます。
哲学好きな方は、「目を開いた瞬間」、物質世界そのものの存在が視覚を通して強制的に飛び込んできますので無意識に心のフォーカスが視界ロックに違和感があり、自分の存在、内なる世界と外の世界との関係性にフォーカスに当てて悩むことになります。
分類学的定義では明確に分けることができませんが、ヘーゲルか?キルケゴールか?、あるいは?
そのなかに僕の一元論は多解釈定義の自己矛盾のなかにあります。
精神世界に僕が遊ぶとき、どうしても物質界、そのなかの愚かな人間界、その人間のもつあらゆる経年で培った固定観念の脆弱性をつくづく嫌になることがあります。
70%視界イメージがそれ以外の別な感覚に振り分けられた能力、踊さんの三味線演奏を聴いていて感じました。
”健常者”と定義される人がつくる世界、それよりはるかに”障害者”と定義される人のつくる世界のほうが如何にまともであるかと思えてならない。
心に”障害”ある人が”健常者”に如何に多いことか。
改めて、僕たちの住む社会の在り方について僕なりに精進したいと思います。
空 サク