蝶樹の浅海人奇譚

to be or not to be anywhere to be that i will be … to be going to go on with the tortoise 'Saku' and my sincere companion , If justice is human love …

僕の世界観が希求する宗教とは

ある出来事から、ふと想念が天からおりてきた。

忘れる前にブログに是非残そうと思ったので良ければ御付き合いくださいm(uu)m

子供が下のような小冊子を家に来た人からもらったと見せてくれた。







宗教選択の自由だから宗教批判などしない。小学5年生以上を対象に書かれたものらしい。

子供に見せても良いものか小生も内容チェックした ( ^ω^ )

問題なさそうだ。

そんな理由で宗教をどれぐらいの年齢から触れさせてもよいか所論あるだろう。

世界観の全くできてない子供に、道徳教育でなくて洗脳になってしまうのではないかと思うのだ。

例えばキリスト教でも異端な宗派には生き方を著しく制約する教えもある。

小生にとって宗教に求めるものは何かというテーマに人生観よりも世界観として興味深いテーマでもある。

寿命も折り返しに入ると世界観も固まってくるわけです。

宗教へ子供の入り口は楽しい年次イベントで良いと思う。

ハロウィンが終わり、ちらほらとクリスマスのデコレーションが出始め、うちでもサンタにクリスマス・プレゼントをお願いするカードが壁に貼られる時期でもある。

( ^ω^ ) う~ん、カメラか! 笑

子供には楽しいイベントの延長ぐらいの知識で十分であり、親が躾的に教えるものでは無いと思う。

余談だが仏教には其の点で楽しいイベントがあっても良いと思うが( ^ω^ )


小生にとって宗教観とは、哲学や科学の目を通して感じる世界観、それでは到底満たされない虚無の世界を満たしてくれるものではないかと思う。

おそらく其の虚無な世界が占める割合は99%以上を占め、自分の思考が及ぶ世界は1%も満たないと思うのだ。



天を見上げれば、実存する物質としての世界は137億光年の観測可能な距離という天球内の認識でしかない。その先は仮説のみの未知の世界なわけだ。

この状況は有史以来に世界が皿のようなものと思っていた人たちの世界観と規模が異なるだけで何が違うのだろうか。

この闇はニュートンアインシュタインのような科学者が後世で何人出ても人間には解明できないと思うのだ。

小生的には面白いことに観察者自分という存在そのものを疑う哲学的な思考に拡大することになる。


その入り口は、有名なデカルトの言葉である。
我思う、ゆえに我あり

現実世界とは何か、詰まる所その真理は永遠に暗黙のなかに閉ざされてしまうのである。



自らの組成においても、クォークから元素そして分子レベルの様々な結合が織りなす化合物なわけだ。


クォークでさえ素粒子の1グループでしかない。

目では確認できないため量子物理学でスーパーコンピューターのシミュレーションで存在を検証できる話だ。

つまり数学の式で記述できる世界ということだ。

数学者でもない小生は単なるゼネラリスト的物好きの範疇なわけだが、この世界の全てが数学で創られているというファンタジーに魅力を感じる。

また身近な装飾品に利用される宝石、例えば炭素(C)の単体結晶であるダイヤモンドについて宇宙にはダイヤモンドだけのダイヤモンド星が存在する可能性は極めて高いらしい。

金、プラチナ、銀にしても宇宙スケールで考えれば無尽蔵に存在しているわけで、地球上には希少で高価なだけだ。


こんな世界を想像すると物質経済が如何に脆弱な世界であるか理解できる。


余談、実際に地球外資源を探索するトレジャーハンターがビジネスとして夢でなくなった。


日常、人は社会に忙殺されて身の回り事象へ生活コンテキストをロックしてしまう。


必然的に視野を狭くした定数項ばかりの世界であーでもないこーでもないと思い悩むのだ。正直、バカバカしいというのがクールな小生の性格に反映しているのかもしれない。

ここで少し視点を変えてもらいたい。

何故、炭素の単体結晶が誰もがダイヤモンドと認知する表現を成しえるのだろう。

何故、元素記号79の金、陽子79個の原子核をもつ原子の固体形状が金色物質となるのだろう。

これに関しても後世にどんな天才的な科学者が出現しても暗黙の真理で数学の定数項のように人間が受け入れなければならない。

そのような暗黙の真理である定数項、それを初期状態として設定してくれるのが神の存在なのかもしれないと思うのだ。




それでは、小生が実生活で宗教に希求するものは何だろうか?



神は存在するか?

何故、神が世界を創ったのか?

何故、人は生まれながらに罪を抱えているのか?

何故、天国と地獄が存在するのか?

何故、永遠の実存を希求するのか?

・・・・・・
・・・・・・


知られた宗教の説教には、その前提で無限にクエスチョンマークが羅列してしまうのだ。

その中でも関心があるのが唯一グルと感じるパラマハンサ・ヨガナンダが説いた世界だ。おそらくヒンドゥー教の流れを組むインド密教なのだと思う。


イスラム教のムハンマドキリスト教のイエスキリスト、仏教ブッダなど宗教には聖者が現れる。

そんな中でスワミ・ヨガナンダの説いた教えは、自分の心にとてもしっくりとくる。また、数学的にも最小公倍数のような世界観として受容できるのだ。


物質界 ・・・ 人の感じる現実世界


幽界  ・・・ 魂の世界


観念界 ・・・ ルールであり数学のフォーミュラ(公式)のような世界


小生的に当にぴったりだ。

物質界に存在する生物、現在の小生は爬虫類が好きなのだが、全ての動物には魂が宿ると思う。

例えば蛇であるが、蛇も物質界では肉体という物理的な多くの制約があるが、蛇の魂は人間の魂と同じだと思っている。

この物理的な制約というのは大切なポイントで、現実世界で多くの生物が制約を制約と感じずに悠久な時間をかけて進化しながら環境に適応してきたと思う。

仏教の地獄に喩えられるのが物質界であり、それが肉体的な制約となり、輪廻転生の教えとなる。

だから動物虐待や動物殺生は、人に行うことと何ら変わらないと思うのだ。

ここで肉を食べるなとかの極論を言ってるわけではない。人は食物連鎖として生き物を食べてきた雑食系動物だ。

民族文化として日本人は魚類をはじめ多くの生き物を食べてきた。

なにかとお祝いごとに利用される「寿」という字にも、命ある食物という意味があることからもわかる。

ヒンドゥー教であるマハトマガンジーは終生において肉を食しなかった。

日本人として人格が形成されてから習慣を変える必要な無いと考えている。

宗教からの教えは、論語に説かれるような知恵を押さえれば解釈は自由だと思うのだ。

逆に宗教は見かけや行動を事細かに制約するものでなく、心のあり方を正すものだと思う。

小生が好きな浄土真宗の開祖親鸞上人の一念成仏である南無阿弥陀仏などがひとつの形である。


先に書いた虚無がもたらす不安を充足させる心のあり方にこそ宗教に求めるものがあると思うが如何だろうか。


サク