蝶樹の浅海人奇譚

to be or not to be anywhere to be that i will be … to be going to go on with the tortoise 'Saku' and my sincere companion , If justice is human love …

自由という表現に触れるとき、僕が思うこと


12月に入り、新年の足音が聞こえてきましたね。寒い(o^^o)

なんか今日は堅い内容が書きたい心境なので、そんなテーマを選びました。

報道番組しか民放テレビを見ない小生にとって、「報道の自由」とはなんぞやとかね。

ソーシャルメディアでも「表現の自由」を正しく解釈して利用している人は少ないように気がしてなりません。

自由とは選択であり、その選択には社会的な責任が発生します。

人がひとりで生きてゆくならば、また貴方ひとりしか存在しないならば、それは自由という観念すら存在しないでしょう。

他人がいるから社会があり、社会があるから人間という生き物であり、そこに選択の「自由」という観念が発生します。

希望の哲学者J.P.サルトルのアンガジュマン(社会参加せよ!)はそんな不条理で抑圧された社会参加への唯一の希望であり、我らが第一に心がけたいことでしょうか。

わかりやすく表現すれば、この不条理とは富の偏在にあります。

世のマスコミが報道する内容でも底流には全て「お金の流れ」で働いてます。

社会貢献とか博愛とか、すべての美辞麗句で飾られる行動は、相対的に視聴率誘導で日々起こる多くの事件や蛮行によって色褪せてしまいます。

現代社会での息苦しさを感じて精神的に病んでしまう人たちは全てが此れに直接的また間接的に起因していると思うのです。

100年前、1000年前の人間社会が現代社会の環境からして抑圧された自由により、悪辣非道な事件や蛮行が一般大衆へ周知されなかった。

現代社会においてはマスコミの市場原理であらゆるものが報道されてしまう。

圧倒的に「報道の自由」を翳したマスコミが雨あられのように情報をばらまき、無防備に晒された者は好む好まざるに関わらず偏向でさえ潜在意識に植え付けらます。

ここで大切で考えて頂きたいのは、現代社会は出来事への透明性が格段にあがっただけで、道徳性や倫理性などが昔から悪くなってるわけでもなく、遥かに人間社会は良くなってますよね。

枝葉末節に拘って偏った批判ばかりしてる報道や社会団体、その情報が周囲の一般大衆に与えるノイズとなり、少数の人達がそれを曲解して反社会的に走る、それを報道が取り上げるという悪のスパイラルとなっていると思うのですよね。

そこには市場原理といえどもスパイラルを断ち切るのは報道の責任であり、「報道の自由」を翳し選択して発生した責任ではないでしょうか。

最後に、信義を見つけられずに、まず社会批判から入る若者や少数の人たちへ、人生そんなに捨てたものでないよ。

安易に外見を虚栄し、また自傷までして長い人生を好んで無駄な苦労を背負い、住む世界を狭める選択などしてはいけない。

自由とは、選択で発生した事象の全てを自分自身の責任として決して社会に責任転嫁しない者だけに許されたものです。

ソーシャルメディアは報道メディアでないが似たパワーを備えつつあり懸念してます。

あまりにも無責任で誤った自由が徘徊しているから



サク