蝶樹の浅海人奇譚

to be or not to be anywhere to be that i will be … to be going to go on with the tortoise 'Saku' and my sincere companion , If justice is human love …

一部の誤った「動物愛護」に物申す

こんにちは。

Tシャツとステテコでは夜中に少し寒さを感じるサクでございます。


今回は堅い内容となります。できればご一読頂ければ幸いです。


私の運営する爬虫類ペット愛好家が集うFacebookグループへのひとつの投稿が今回改めて個人的な意見を形として残したい欲求にかられてアップしました。


茨城県は犬猫の殺処分が日本でワースト一位の不名誉な県です。このような環境にあって常々思うことは動物との共生の在り方です。


現在、私は犬、うさぎ、亀、へび、ヤモリなど小動物を沢山飼っています。これまでも沢山の動物も飼ってきました。


殺処分問題について、草の根レベルで尽力されている方には本当に頭が下がります。私も微力ながら応援および身近なところからの意識改革の啓蒙活動をしています。


爬虫類好きな某芸術家の方の言葉を借りますが、一部の方が誤解して利用する「動物愛護」という言葉の背景を深く理解してほしいです。


「可愛い、可哀想、動物の世界は人間が思うようなそんな生易しい世界ではない」


殺処分の犠牲になる犬猫の大部分は、飼い主の不注意によるものと飼育放棄だと思います。


前者の場合は物理的な対策を講じることはできますが、後者の場合は飼い主の意識改革や世に蔓延する安易にペットを欲しがる大勢の一般人、その意識レベルを上げるしかありません。


「飼い犬にかまれる」というコトワザがありますが、そのなかには誤った固定観念に引き込む意味が含まれ、飼育放棄に繋がる意識レベルの低さに繋がります。


私は犬猫ほど感情表現も豊かでなく慣れることもないペットとして爬虫類を引き合いに出します。


例えば「かまれる」ことを前提にペットと接し、その生き方の多様性を受容しています。もちろん、その原因を探るのは別な問題です。


人間の互いの存在を確認して存在を認め合うという欲求は、人間中心主義に偏った社会意識に根強く、それが生きやすい世の風潮となってます。


そのため誤解も生まれます。特に犬・猫のような愛玩動物しか許容できないペット・オーナーの方にはその傾向が強いです。


ペットに受け入れられたという仲間意識、あたかもペットが人間社会の一員であるという幻想を現実社会に射影し盲目的に正しい判断を麻痺させることです。


残念ながら、このような一部の方には狂信的で独善的であり、他の意見を受け入れずに逆に他人に凝り固まったイデオロギーを強要する困った傾向があります。


私はこれから健全な社会をつくる子供達が人間世界だけでない自然環境を含めた社会感覚でバランス良い大人に成長を願うし、そのために行動します。


エゴイズムの増長された人間だけの社会性のうえで構築される価値観、大人になってから改めることは難しい。


児童教育の大切さに繋がるものです。広義にはイジメ問題にも繋がるでしょう。


一部の困った大人達、「動物園を廃止しろ」というような暴論で一般大衆を扇動しないでほしい。「動物愛護」を偏った価値観や偏見で都合良く利用していませんか?


確かに動物の施設運営するものには意識レベルが低く、その飼育環境にも問題あるでしょう。まず初めに、その環境改善の活動が努めて行うことではないですか?


地球環境、自然環境、そして「動物愛護」という活動の根底には、自然環境の生態系を深く理解して環境の保全と改善のために活動する、またそれに努めようとする意志に私は希望を見いだします。


そのために自然環境で動物がどのように生きているかを理解しなければなりません。大部分の隔離された人間社会で生活する一般人、その子供たちの教育を含め自然環境の理解のためには動物園も必要ですし、書籍をはじめとするあらゆるメディアで学ぶことが必要です。


このような意識改革が、「動物愛護」を乱用して誤った活動されている方々および団体、安易に飼育放棄するペットオーナーの心の深いところに届き改心することを祈るしかありません。それら理解して初めて「動物愛護」であってほしい。


あなたが共に生活しているペットたち、その仔たちがあなたに危害を加えたとしましょう。あなたの内発する情動を冷静に観察してみてください。


問題の本質はそこにあります。



サク